ニャーナラトー長老 法話の記録 安養寺みんなの仏教 

第九回初期仏教勉強会  2019年 7月20日 レポート 吉水秀樹

2019/07/27
未分類 1
  第九回初期仏教勉強会  レポート 吉水秀樹
2019年 7月20日(土) @安養寺


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ニャーナラトー長老の法話は、七月の満月の日に因んで、ブッダが悟りを開かれて最初に説法されたと伝えられている初転法輪の中核、『四聖諦』からはじまりました。
 仏教の本質は、{non suffering}「苦しみのない」「苦しまない」ことです。これを簡潔に言うと「中道」となります。簡単な言葉ですが、この理解のうえに仏道、仏教の実践があるか否かがとても大切なのです。

 最初に四聖諦を簡単に解説します。四聖諦とは四つの聖なる諦(真理)という意味です。「苦諦・集諦・滅諦・道諦」「苦集滅道」のことです。

「苦諦」苦しみの自覚              → 病気の自覚
「集諦」苦しみの原因              → 病気の原因
「滅諦」苦しみの終焉=涅槃・理想の状態     → 健康な状態
「道諦」理想に至る方法・冥想法=八正道(中道) → 病気の治療方法


 四聖諦図


 四番目の「道諦」とは、仏道のことで、中道=八正道と理解して間違いありません。

★パーリ語経典 大品(マハーヴァッガ)に、ソーナsonaという修行者の経があります。
ソーナは、人一倍がんばって修行に励んでいましたが、悟りに近づけず焦っていました。お釈迦さまはソーナに対して、彼がかつて琴の名人であったことを知り、次のように話されました。

「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」「いいえ、そうではありません、世尊よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」「いいえ、そうではありません、世尊よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、ちょうどよい度合を持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」「そのとおりです、世尊よ」
「それと同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠(けたい)を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感受の働きにちょうどよいところを知り、そこに目標を得なさい」と中道の教えを説かれました。

 仏教者は、最初に二つの極端から離れなければなりません。二つとは、「快楽」と「苦行」のことです。快楽を求めて享楽的に生きることと、快楽を否定して苦行することです。この二つの極端は、実は私たちの日常の暮らしのなかにも、冥想修行のなかにもあらわれています。

 四聖諦の一番目は「苦聖諦」=「苦しみの真理」です。苦しみはあってはならない、苦しみは消さなければ、もっと言えば「苦しみを叩き潰さなければ!」と思っている人もおられるかもしれません。しかし、実にブッダの教えは、「苦しみを理解すること」から始まります。苦しみと戦ってはならないのです。苦しみの原因である煩悩も、同じように叩き潰すのではなくて、観察し理解するものなのです。
 ニャーナラトー師は、これを示すために参加者の質問から説かれました。それは、「心」「心の本質」「心そのもの」と「心に現れては消える儚い状態」との違いを理解すること、というアチャン・チャーが若い頃、師匠から教わった言葉の真意を理解することです。
 まず、「心に現れては消える儚い状態」とは、簡単に言うと苦楽のことです。思考・感情と言っても間違いではないと思います。私たちの日常は、しいては私たちの人生は、「苦しみをなくすこと」と「楽を得ること」、つまり「苦楽」の二つに終始しています。
 もう少し詳しく言うと、「苦」と「楽」と「不苦不楽」です。そして、「苦」とは「怒り」のこと、「楽」とは「欲望」のこと、「不苦不楽」とは「無智」のこと、つまり、私たちの人生は貪瞋痴の三毒煩悩に終始しているという意味です。そして、それらはそのまま輪廻の世界であり、そこで勝負してはダメということです。
どうやってこの苦しみを消し去るか、叩き潰すか、どうやって幸福を手に入れるか。冥想でも同じように、どうやってこの苦しみの状態をなくすか、どうやって冥想で目指す境地に辿り着くか。まず、自分がこの二極に対して前のめりになって、立ち向かっていることに気づくことです。簡単なことのようで、この気づきがあるかないかが分かれ道です。これに気づかないかぎり、いくら一時的に苦しみがなくなっても、あるいは一時的な心の安らぎを得られても、それは現れては消える儚い状態であって、根本の解決には至らないのです。
これが四聖諦で言う、「苦諦」の部分です。苦しみの自覚、苦しみを認めないかぎり、話にならないのです。本人が自分は病気であると認めないかぎり、治療の施しようがないのです。
自分が本当に前のめりになって、これらの問題に立ち向かっていることに気づき、そこから離れる、それを手放す、それを放っておくことができたら、その場で私の問題が消えることになります。何故なら問題をつくっていたのは、私であって、立ち位置が変われば問題はなくなります。
ニャーナラトー長老の法話会に来られていない方には難解な表現になりますが、そんなわけで、仏道実践の中核である中道とは実に、何であれ対象に向かって、前のめりになっている自分(輪廻の世界に自ら巻き込まれていること)に気づいて、背筋を伸ばす(離れる・本来の立ち位置に返る)ことなのです。このことに尽きるのです。それが、doing nothing であり、このポイントに気づいたなら、それが中道であり、たいしてすることはないのです。
 さらにあえて誤解を恐れずに言うなら、苦と楽の二極はどちらも無価値です。心に現れては消える儚い思考や感情に価値はない。勝った負けた、儲かった損した、得られた失った、などの日常の人間の価値基準に対して、すべて価値はないと達観することです。これは、「価値がある」「価値がない」の「ある」という世界の両方を捨てた無価値であり、それを中道と言い換えることができると思います。私たちが大切にしている人間関係も、しいては人生そのものもたいして価値がない、それらから距離を置く、離れるということです。

質疑応答編  

 参加者の感想に毎回顕著にあらわれますが、ニャーナラトー師の質問を聴く態度、言う態度に感銘を受けられる方が多いです。穏やかで丁寧で、師のそういった立ち居振る舞いに触れるだけで苦しみが和らぐようです。これは師の質問を受ける基本姿勢が、まずその人の苦しみをなくすことに主軸がおかれ、その後の研鑽のなかで真理をあきらかにするように心掛けておられるからだと思います。それが、人の話を聞くことが苦手で、待てない私には、今回の師の返答が手緩く思えることが何度かあり、私は悪役になって突っ込みを入れました。その辺りの問答を私なりに振り返ってみます。
 参加者から人間関係についての質問があり、相手に非があり義憤を感じるような場合、業の法則からその事実を観るといった問答がありました。この場合、まず自分が相手をどう見ているのか? という根本の問題があります。相手が自分以上に権力を持った人であっても、その人は苦しみのなかでもがいている哀れな存在に違いありません。そこに加えて「自業自得」という法則があります。この言葉は何度もテーマにあがりましたが、最も誤解されやすい仏教用語でもあります。

  法句経に次のような句があります。
『他の人のあやまちではなく、他の人のしたこととしなかったことでなく、自分のしたこととしなかったことを智慧の眼で見るがよし。』五〇

法句経50


 自業自得を理解するのに、この偈が役立ちます。私たちの感覚器官は外部を認識するように作られているので、私たちは基本、他の人のしたこととしなかったことに気がいきます。しかし、他の人のことは放っておいて、自分のしたこととしなかったことを智慧の眼で見よという意味です。私たちは人に限らずいつでも外界を認識しています。空間もそうです。お堂の広さや、部屋にある物を認識して、空間を理解しています。しかし、その空間(人)が外にあると理解するのが根本的な間違いです。
ニャーナラトー師の言葉にもありましたが、二つの空間があります。一つは絶対空間とか空間そのもの(心そのもの)です。この空間(心)は認識できません。空間そのものは、見えない、触れられない、大きさや質量もない、上下も方向もない、個人のものでもありません。認識を超えたあるがままのものです。それに対して、私たちが日常、空間と呼んでいるものは、大きさや質量があります。つまり、それは自分で認識した、切り取って分別した、つくられたもの、判断などの思考の世界です。要するに普段私たちが見ている世界(空間)は、私が切り取った思考世界なのです。この事実が了知されたなら、憤慨している相手も、自分の家族も、会社やすべての組織も、およその対象とは、自分が認識して切り取ってつくったものだと理解されます。憤りを感じている相手は、実に外にあるのでなく自分の心に映し出された私の一部です。その相手に対して怒りを持つことは、自分を破壊することに違いありません。ブッダが人のしたこととしなかったことを見るのでなく、自分のしたこととしなかったことを見よと説かれたのは、それが真理だからです。
 「わたしはあなた、あなたはわたし」も真理です。その真理が理解されれば、スッタニパータの一番目の偈に説かれてあるように、怒りの毒を真っ先に消し去ることが一番初めにするべきことで、現象面の人間関係を修復するのはその次のステップです。この順番を理解しないかぎり、根本になる問題解決はないと思うのです。
 ニャーナラトー師は、このことをブレーキとアクセルのたとえで話されました。自分の怒りを解決しないままに問題に向かうことは、ブレーキを踏みながらアクセルを踏むことに似ています。大変なエネルギーの損失があり、場合によれば先に自分の心が壊れてしまいます。それに対して、問題から一旦離れることは、その問題の傍観者になるのではなく、ブレーキを外すことに相応します。そうして、自分の心をしっかりと守って、ありのままの事実を観て慈悲喜捨の四無量心でアクセルを踏み込むことが問題解決への一本道だと思うのです。

大乗の漢訳経典に、お盆に読まれる「唯心偈」(破地獄偈)という偈があります。
唯心偈=『若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造
口語で意訳すると、「もし人が過去現在未来の如来のこころを了知しようとするならば、宇宙自然界の一切は、ただ、私のこころのあらわれだと観察しなさい」となります。

 そんなわけで、自業自得は自他のない世界ではじめて理解される真理なので、それを知らないと誤解が生まれます。問題は世界にあるのではなく、いつでも私が問題なのです。すべて自分がつくっている世界だと了知されれば、そこに、怒りや嫉妬があるのではなく、自由があります。
 人間関係の修復はその後でするのが賢明です。スマナサーラ長老は、ある意味で人間関係は解脱するより難しいと仰いました。この意味は、解脱は自分ですることですが、人間関係は相手があります。相手を変えることはできないという意味かと思います。この世での人間関係は、このように理解してから、取り組むべき問題ではないかと私は思います。

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冥想会
 ニャーナラトー師に冥想指導を受けて、今になってはじめてわかったことがあります。
私はスマナサーラ長老から冥想指導を受けて、それなりの冥想の導入法を教わって、基本その通りに実践してきました。しかし、その導入法に比べたら、ニャーナラトー師の、ひいてはおそらくタイ森林派テーラワーダ仏教では、細かな冥想の指導がないように感じられます。どちらが良いという問題ではないのですが、ニャーナラトー師の冥想会では、初心者でも細かい指導がなく皆と一緒にはじまります。あえて言うならば、背筋を伸ばして楽な姿勢をとることくらいです。歩く冥想でも、普段と同じくらいのスピードでただ歩くだけです。
そう言えば、初めての冥想会の時に、私との打ち合わせで、「私の冥想会では特に冥想法の指導はしません、一日を一緒に暮らして何か感じ取って欲しいのです。それなので、できれば終日参加できる方を対象にしたい」という意味の話し合いをしました。
最初その進め方は、のれんに腕押しのような感じで違和感がありました。しかし、確かに真理に至る方法などないのが真理とも言え、今では自転車の横玉を外してもらった子どものような解放感すらあります。まったくガイドがないわけではありません。苦しまない non suffering、タンハーを持ち込んでいる、身体が前のめりになっている、苦しみに気づけば背筋を伸ばす、離れる、呼吸に安らぐ、心に安らぐ。そして、そこには何にもない。Doing nothing. とりわけ私にとって特効薬になったのは、釣り針のない釣りのたとえです。夢や期待や希望という、サンカーラ saṇkhāra を持ちこまない。のれんに腕押しも、釣り針を垂れることに慣れている私の好転反応だったと、今は理解できます。

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  参加者の感想 ※少し校正編集してあります。


ニャーナラトー師は話を聴いている私たちの目線まで降りて、言葉を大切にされ、少しでも伝わり易いように心を砕いてくださっていると思います。また、上座仏教という枠を越えて、人として大切なことを学ばせて頂けているとも思い、直接ご指導頂ける機会があることに本当に感謝しています。以前、こちらとは別の法話会や瞑想会で、ニャーナラトー師が仰ったことですごく印象的だったのが、『「瞑想会に来ている、法話を聴いている、仏教の本を読んでいる、或いは出家している」→「正しい修行をしている、正しく生きている」という保証にはならない』
『瞑想をすることで「我を太くしている人」もいる。それは気を付けなくてはいけない』といった内容のお話でした。今回そのお話を思い出し、「自分は正しく出来ている。解っている」と思い込んでいても、実際は、自分自身のことも他の人のことも、「ありのままに見ている」つもりで、「自分が見たいようにしか見ていない」ものなのではないか、そのため、自分の慢心や承認欲求などに気付いておらず、自分が正しいと思っている見解を、相手の気持ちや状況を考えずに、述べてしまうものなのではないかと思いました。「ありのままに見る」ことの難しさ、そして、「自分は出来ている。解っている」と、独りよがりに思い込むことの怖さを改めて実感し、反面教師として、私自身、これからまた本当に気をつけて行こうと思いました。 S・Tさん




 勉強会は前に一度参加させていただきましたが、冥想会は初めてでした。坐る冥想や法話を聞いているときは半分起きて半分眠っているようなまどろみの中にいました。「こんなことではだめだ」と思いながらも心地よい空間にいるやすらぎがありました。不思議な余韻が残っています。日々の冥想で「三十分しかできなかった」「六十分できた」と評価して、ハードルが高いというか頑張ってやらないとできないところがありました。その垣根が取れてすっと坐ったり歩いたりができるようになり、とても楽になりました。
送られてきたレポートも読ませていただきました。一昨日のことですが「身体が前のめりになっていたなぁ」と、時間が経ってから気づけました。「ブッダが人のしたこととしなかったことを見るのでなく、自分のしたこととしなかったことを見よ」と説かれたように常に、何事も自分の問題として見る…。お話されたことが自分なりにしか理解できていないので過去のレポートを読み返したりして実践していきたいと思います。N・Mさん


ニャーナラトー師の質問者に対する態度、姿勢を学びたいと思いました。相手の問題に取り組む姿勢、そして苦を少しでも減らしたいというお気持ちが伝わってきました。R・Kさん

{non suffering}が心に残りました。中道のお話で、快楽追求がいっぽうにある、というのはわかっていたつもりですが、もういっぽうの、ふつうは苦行といわれる方向に、なんとか自分の煩悩、欠点をなくしたい、叩き潰したいというのが入る、というのは、そうなんだ! とちょっと驚きでした。苦しい,苦しんでいるというときは、自分の立ち位置が間違っている、ということなのかなあ、と思いました。T・Yさん

 とにかく素晴らしかったの一言に尽きます。長老の佇まいや、表情、声のトーンなどからも慈愛を感じました。ブッダの教えのエッセンスを、分かりやすくシンプルに伝えてくださり、安心して場に委ねることができました。瞑想や修行の場にタンハーを持ち込まない、doing nothing という在り方についてのお話が、心に残りました。長老の「なんにも問題ない」という、お言葉を思い出しながら、日々の瞑想を行っています。テーラワーダ仏教に出会ってまだ三年ほどですが、学び続けていきたいという気持ちが高まってきました。チャンダがタンハーにならないよう自分を観察しながらと思います。J・Tさん

「中道」について、立ち位置という言葉を使われてのお話が印象に残りました。特に人との関係で厄介な怒りという感情をどう手放すか? スッタニパータ蛇の経の最初のガーターを思います。人との相対的な関係をどうこうしようとせず、ただ自分の姿を見ることで、怒りを超える。怒りを抑えるとか我慢するのでなく、怒りを怒りに任せる。放っておく。それが捨てる、手放すということかと? 何かにカーッとなって怒り心頭のとき、ふとガラス窓に映った自分の怖い顔を見て「あれあれ、またやっちゃってるわ。」と思わず吹き出すみたいに。釣り針のない釣りのお話も、確かに何も引っかからないのだから何も面白いことはないのだけど、解放されているというか、そういうのがなんだか面白いなと思いました。 Y・Kさん

瞑想会においてニャーナラトー師は、「瞑想修行にチャンダ(意欲)は必要だが、タンハー(渇愛)を持ち込まないことが大事です。」というお話をされたかと思います。「何分坐れた」「何回瞑想会に参加した」「瞑想が深まった」などのように、ものさしで測ったり、勝ち負けにこだわってしまうことがあるけれど、これがタンハーを持ち込んでいるということ。涅槃とはそういう勝ち負けの世界、サンカーラ(もの・こと)の世界、輪廻の世界を超えたものであり、その涅槃へ至るための瞑想修行において、「これをどうしてやろう?」という風にやってしまっては、ブレーキをかけながらアクセルを踏み込んでいるようなものであると。このお話を聞いた私も多分に身に覚えがあったので、「では、タンハーとチャンダはどうすれば見分けられるのでしょうか?」と質問用紙に書かせていただきました。ニャーナラトー師はそれをお読みになって、以下のようなお答えをくださったかと思います。「タンハーがない状態では、心身がとても軽く感じます。
タンハーがあると重みが出てくるし、体も前のめりになるので、それによって『あ、今自分はこだわっているな。勝負しているな。』ということに気づくことができるでしょう。気づいたら、そこでケンカしない。『あってもなくても全く問題ない』という立ち位置で、それを手放す、置く、離れる。」「重み」「前のめり」という体の感覚によってタンハーの存在に気づく、という具体的な説明は、きっと今後の修行の助けになるだろうと感じ、心に留めておきたいと思いました。
師のおっしゃる{doing nothing}は、どこか分かるようでいながら、つかみどころがないようにも感じていたのですが、以下のお話を聞いて理解が深まったように思います。「人は常に、do, do, do…(これが欲しい これはイヤ)、be, be, be…(こうなリたい)の方へと引き寄せられるものなので、{doing nothing}を{doing}するためには、心の強さが必要になります。その強さを養うため、アチャン・チャーは墓場で一晩過ごすなどの頭陀行も行われました。頭陀行は苦行とは違って、智慧に基づく修行です。このお話を聞いて、{doing nothing} とはやはり、ただ放逸に、気づきなく過ごすこととは違うんだな。」と、腑に落ちたように感じました。またニャーナラトー師は瞑想会終了後の個人的な質問にもとても親身にお答えくださり、大変励まされる思いがしました。A・Iさん

沢山教えて頂きましたが、「苦しみを終わらせる仏道に、苦しみを生み出さないように。何もしない。に、いつも戻って、二極の間を計り続けるこころを休ませるように。ここに戻って、いつもこころをまもるように。」との教えが染み込みました。 A・Fさん

私は今回で五回目になると思います。毎回、毎回、一歩ずつですが、私の日常生活に智慧の光が差し込んで、見え方が変わっています。師の法話の実践的な内容はもちろん。師の修行者としてのたたずまいと、吉水住職の突っ込みが回を追うごとにスリリングになって来たのも、法話を受け取り楽しく理解できることにつながっていると思います。さて、今回の感想は目の前に大きな壁が現れたことが成果だと思います。何回もドゥ・ナッシングのお話を聞かせていただき、それが結びつながり、その世界が鮮明になってきたように思います。日常生活でのチャレンジに意欲が湧いてきました。
また、師の法話は、仏教専門用語をなるべく使わない方が聴き手は理解しやすいという配慮があるように思います。専門用語を使えば、仏教を語っているつもりになったり、修行が進んだと思い込みがちです。特に在家同士の修行風の世間話しは、もっとも危険だと自戒しています。この意味でも、長老さまと直接お会いする機会をいただき感謝しています。R・Kさん

私は現在ダブルワークでお寺の仕事をしています。それは色々思うこともあって本業ではない事に挑戦?しています。お寺のお仕事は多岐にわたりありますが私の担当は清掃と職員や信者さん達へお出しする食事の調理と洗濯です。自分ではこの仕事を総称しハウスキーパーならぬテンプルキーパーと呼んで自覚して取り組んでいます。昨日の質疑応答の時にお話しされた尼様や女性の方々のストーリーやニャーナラトー師のお話しを自分にひき比べながら悩んでいる事は自分だけではないのだと思い、終わる頃にはとても安心した思いがいたしました。そしてつきなみな表現ですが日常生活全般に渡っての気づき、サティの実践がやはり悩み苦しみを乗り越える唯一だと確信します。スマナサーラ長老とはまた違った表現で語られることも確認になります。「手放すこと」とはサティの力を高め微細に心路の流れにサティを乗せて今ここに気づき続ける事で行えるものと思います。建物の一階に空なる心があって、その二階に様々に生滅する心所がある。そう観じ何か現象が起きた時、そこに怒りや欲などの不善のエネルギーが湧いた時それに直ぐに気づけるならば、現象に参与しないでいるとやがてそれらが消えていく…そのようなことなのかなと思いました。人間関係の問題ってどこに行ってもあるし、ある意味どこに逃げても逃げられないと思います。実際逃げきれませんでした。人生ってdukkhaなので人生劇場ゲームにしちゃうしかないと思います。智慧が必要です。なかなかできなくて負けてばっかりですが。それも無常だからしようがないかなと思い落ち着くしかないですね。そんな感想を持ちました。 R・Yさん

毎回、丁寧なわかりやすい言葉を選んで説明をくださるのですが、微力ながら、瞑想から初期仏教のことを少しずつ学んだことも効を奏して、今回はとてもわかりやすかったです。毎回説かれる、Doing nothing、中道であること、心の状態と心の状態を知ることは別であること、瞑想で気づきを保ち心を穏やかにする事の大切さが、少しわかってきたような気がします。そして、瞑想を始めて間もないころ、貴寺にて、一日瞑想の機会を与えていただいた時の事を思いだしました。長時間の瞑想で心がすっかり落ち着き、とても穏やかであり、そして、それは翌日の月曜の朝まで続きました。本来、月曜の朝は、マンディブルーに象徴されるように、いろんなネガティブな気持ちが交錯して、朝の準備も今一つ気乗りしないことも多く、時間もぎりぎりになったりするのですが、その日は違ったのです。すべてが、淡々とはかどり、ふと時計を見るといつもより一〇分早く準備も終わっていたのです。その時は、私は、ただやるべきことをやり、そこにはいつものようにネガティブな感情が入らなかったのです。その時が、たぶん、Doing nothingであったのではないでしょうか。物事に何も感情を与えない。中道であること。そのままずっとその状態でいられれば良かったのですが、当然そういうわけにもいかないです。また、心がSpaceであるという説明もわかりやすかったです。物事がそこに現れては消える。Doing nothing を日常的なものにできるように、日々に瞑想を取り入れていきたいと思います。N・Mさん

勉強会では四聖諦が大切だと言われておりました。無我、無常、苦などを意識してましたがこれからはもっと四聖諦を大切に勉強していこうと思います。八正道では正見を理解すると後の正道も分かるという話がとても勉強になりました。正直そこまで意識してなかったので勉強になりました。アチャン・チャー師も仰られていますが「手放す」「立ち位置を変える」というのが私が日頃から一番意識しているところなのでこの話が聞けて良かったです。立ち位置をちょっと変えるだけで、決定的な差があると言われていたのも印象的でした。ここに帰ってくる(Doing nothing)英語、タイ語も交えて楽しかったです。
瞑想会はニャーナラトー師の瞑想に入って行く時のお話がとても良くて良い誘導になりました。普段の瞑想とは全然違って眠たくならないのですがこの日は眠くなりました。これはネガティブではなく程よいリラックス、緊張感、誘導、場の空気、参加者からの刺激など大変良かったと思います。勿論寝てません。耐えましたよ!笑 改めて思ったのは普段一人でもどこでも瞑想する事は大切ですが勉強会などに参加してみんなで瞑想するのとでは違いを凄く感じました。心身共に良い疲れを感じて夜も良く眠れました。歩く瞑想も「ブットー」と心で唱えながら歩く瞑想は初めてで良い瞑想ができました。歩く度に「ブットー、ブットー」と心で唱える。これがいいですね。思考が湧きにくいと思います。勉強会、瞑想会を通して一番、響いたのは「スぺース」のお話でした。何もあるけど何もない世界。全然理解していないのですがここが一番すきです。何という幸福というか静寂というか言葉に現しようがないというのが好きで自分でも今までずっと気になってました。これからも学んでいきたいと思います。K・Yさん 

 仏教の根本である『四聖諦』、何があってもこの立ち位置に戻る。生きていくこと自体が四聖諦そのものである。このことをまず念頭に置くことが大切であると、踏まえたうえでのお話だったように思います。「苦があること」、そして「苦をなくしたい」「楽を得たい」という二つの間で思い煩ったり勝負しても仕方がない。この両方から離れることによって、立ち位置が変わる。正しい、正しくないという対立ではなく、真ん中にいる。せめぎあいになりそうなその状態に気づき、中立的、ニュートラルな立ち位置にいる。これが大切なことのようです。
師が仰るdoing nothingという言葉は、この中立的な立ち位置にいることなのかと思います。
 人間は放っておけば前のめりになって、何かをつかもう、この苦しみから逃れようと、do do doになります。すると今度は、前のめりになってはいけないという、前のめり状態になります。
けれど、前のめりになることも、前のめりから離れたいとあがくことも、ともに否定しない、ただそのような状態にあることに「気づいて」手放す(見送るということでしょうか?)。これが本当に大切なことなのだと痛感しました。瞑想を通じて、日常生活の中で、その時その時の心のありよう、状態に気づくだけでよい。このことが太公望の釣りのたとえ、「釣り糸に針をかけない」ということなのだと理解しました。頭では何となく分かっていたことかも知れません。けれど師と同じ空間の中に居て、直接お話を聞けたことで胸に響くものがありました。宇治から戻り、日々の暮らしの中で、「あっ、今前のめりになっている」「あっ、釣り針付けた」と、サティが入るようになりました。すべてをさっと手放すことはできませんが、「まず気づくこと」、と自身にいいきかせています。 H・Tさん

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安養寺住職 吉水秀樹
Admin: 安養寺住職 吉水秀樹

『安養寺みんなの仏教』ニャーナラトー長老の法話を住職の吉水秀樹がレポートしたものです。 

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自分の感想を、こちらの許可なく無断で一部削除・編集されて記載されていますので、
下記に全文を記載いたします。
人づてに知り、見過ごせませんでしたので。

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いつも思うことですが、ニャーナラトー師からは、お釈迦様の教えの本質的な
とても大切な部分を教えて頂いたり、思い出させて頂き、大変ありがたく思っています。

話を聴いている者達の目線まで降りて、言葉を大切にされ、少しでも伝わり易いように
心を砕いてくださっていることがよく解り、また、上座仏教という枠を越えて、
人として大切なことを学ばせて頂けているとも思い、直接ご指導頂ける機会があることに、
本当に感謝しています。

以前、こちらとは別の法話会や瞑想会で、ニャーナラトー師が仰っていらして、
すごく印象的だったのが、
「『瞑想会に来ている、法話を聴いている、仏教の本を読んでいる、或いは出家している』
イコール『正しい修行をしている、正しく生きている』という保証にはならない」
「瞑想をすることで『我を太くしている人』はいる。それは気を付けなくてはいけない」
といった内容のお話でした。

今回そのお話を思い出し、「自分は正しく出来ている。解っている」と思い込んでいても、
実際は、自分自身のことも他の人のことも、「ありのままに見ている」つもりで
「自分が見たいようにしか見ていない」ものなのではないか、そのため、自分の慢心や
承認欲求などに気付いておらず、自分が正しいと思っている見解を、相手の気持ちや状況を
考えずに、述べてしまうものなのではないかと思いました。

「ありのままに見る」ことの難しさ、そして、「自分は出来ている。解っている」と、
独りよがりに思い込むことの怖さを改めて実感し、反面教師として、私自身、これからまた
本当に気をつけて行こうと思いました。

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                                          以上

2020/06/14 (Sun) 20:57
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