ニャーナラトー長老 法話の記録 安養寺みんなの仏教 

『バーヒヤ経』考察  吉水秀樹

2020/12/09
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『バーヒヤ経』考察  吉水秀樹

小部経典3:ウダーナ 1.10. バーヒヤの経(10)

弟子2プンナ

初期仏教経典に登場するバーヒヤさんは、最短で解脱した人として知られています。そして、解脱を得られたその日に、出家の準備をしている最中に出家することなく事故で亡くなった人物と経典に説かれています。彼は長い旅の末に、托鉢中のブッダに会うことができました。そしてその場で教えを求めました。しかし、ブッダは今托鉢中という理由で二回も後で説法しますと断ったのです。ところが、バーヒヤは食べることは何時でもできるが、何時死ぬかわからないのでその前に浄らかなこころを作ることが大事ではないかと、ブッダを説き伏せて説法を聞く機会を得ました。ブッダはその場で立ったまま説法をしました。念願の叶ったバーヒヤさんは、ブッダの説法を聞いてその場で解脱を得たのです。
『見仏聞法即入無生』(仏を見て、仏の教えを聞いて、その場で解脱に至るという意味)と漢訳経典にある言葉をそのままにしたのが『バーヒヤ経』です。

さて、ブッダはバーヒヤさんにどんな言葉で法を説いたのでしょうか? 立ち話なので長い説法ではありません。そのブッダの回答の部分だけをパーリ語と日本語対訳で考察してみました。日本語訳は私がパーリ語を習っている正田先生の訳を参考にしましたが、先生は文法に忠実なので日本語で理解し難い部分があるので、その部分は私が意訳しました。

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 ブッダのバーヒヤさんへの返答 ※58

“Tasmātiha te, bāhiya, evaṃ sikkhitabbaṃ—
『バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,  
「見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
sute sutamattaṃ bhavissati,
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
mute mutamattaṃ bhavissati,
思い浮かんだものにおいては、思い浮かんだもののみが有るであろう。
viññāte viññātamattaṃ bhavissatī”ti.
意識されたものにおいては、 意識されたもののみが有るであろう」と。

Evañhi te, bāhiya, sikkhitabbaṃ.
バーヒヤさん、まさに、あなたはこのように学ぶべきです。
Yato kho te, bāhiya,
バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、
diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
sute sutamattaṃ bhavissati,
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
mute mutamattaṃ bhavissati,
思い浮かんだものにおいては、思い浮かんだもののみが有るであろうことから、
viññāte viññātamattaṃ bhavissati,
意識されたものにおいては、意識されたもののみが有るであろうことから、
tato tvaṃ,bāhiya,
バーヒヤさん、それですから
na tena; yato tvaṃ,
あなたは、それとともにいないのです。
bāhiya, na tena tato tvaṃ,
バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、
bāhiya, na tattha; yato tvaṃ,
バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
bāhiya, na tattha, tato tvaṃ,
バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、
bāhiya, nevidha na huraṃ na ubhayamantarena.
バーヒヤさん、あなたは、この世になく、あの世になく、両者の中間にもいないのです。
Esevanto dukkhassā”ti.
これこそは、苦しみの終極“おわり”です』と。

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もっと短く要点を絞ると、
『バーヒヤさん、見たものは見ただけ、聞いたものは聞いただけ、思い浮かんだことは思い浮かんだだけ、意識したことは意識しただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない、内にもいない。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない。それは一切の苦しみの終わりです。』

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 さて、初期仏教の瞑想や仏道修行の経験のない人にはこのような言葉を聞いてもピンと来ないかもしれません。私はこの経典をはじめてスマナサーラ長老の解説で聞いたときに感激しました。
「見たものは見たまま、聞いたことは聞いたまま、考えたことは考えたまま」とは、「膨らみ膨らみ膨らみ、縮み縮み縮み、痛み痛み痛み、音音音」ヴィパッサナー冥想実践のことと理解できます。
何かを見たとき、「色」と「眼」と「眼識」があり、
音が聞こえたとき、「音」と「耳」と「耳識」、
思考したとき、「法」と「意」と「意識」が存在するが、それ以外に何もない。つまり、「私」という実体は何処にもない。

このようなヴィパッサナー冥想を何年も続けています。続けていて、ときどき瞑想の結果か欲しくなるときがあります。達成感…、「できた!」「やった!」という満足感。このように何かを求めている時、瞑想は絶対に上手くいきません。何故なら「我」があり、「私」という中心があって、その「私」が結果を思考の世界で求めているからです。しかし、心配は要りません、そういう自分の意識に気づいて、「意識されたものにおいては、意識されたもののだけが有る」とそこから離れることができるからです。
そこが理解されれば、「見たものは見ただけ、聞いたことは聞いただけ、考えたことは考えただけ」「それ以外に何もない」。それこそが、ゴールだと納得ます。
ほんとうにそれ以外に何もありません。禅宗で言うところの、「只管打坐」(ただひたすら坐る)も、スタートであってゴールなのだと思うのです。アチャンチャーの言葉だと、「電車に乗ってしまったと気づいたら、ただ駅に帰る」そこが、帰るべきMy Home! “Holiday of heart”

弟子モッガラーナ

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正田先生による全訳
小部経典3:ウダーナ 1.10. バーヒヤの経(10)
 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティに住しておられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の園地において。さて、まさに、その時、樹皮行者のバーヒヤが、スッパーラカの海岸に滞在しています。〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を得る者として。そこで、まさに、静所に赴き坐禅する樹皮行者のバーヒヤの心に、このような考えが浮かびました。「誰かしら或る者たちが、まさに、世において、あるいは、阿羅漢たちとしてあり、あるいは、阿羅漢道に入定した者たちとしてあるなら、わたしは、彼らのなかの或るひとりなのだろうか」と。
 そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤの過去〔世〕の血縁である天神が、〔彼を〕慈しみ、〔彼の〕義(利益)を欲し、〔自らの〕心をとおして、樹皮行者のバーヒヤの心の考えを了知して、樹皮行者のバーヒヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、樹皮行者のバーヒヤに、こう言いました。「バーヒヤさん、まさに、あなたは、阿羅漢でもなければ、あるいは、また、阿羅漢道に入定した者でもありません。その〔道〕によって、あなたが、あるいは、阿羅漢として存することになり、あるいは、阿羅漢道に入定した者として〔存することになる〕、その〔実践の〕道もまた、あなたには存在しません」と。
 「では、そうしますと、天〔界〕を含む世〔界〕において、どのような者たちが、あるいは、阿羅漢たちとしてあり、あるいは、阿羅漢の道に入った者たちとしてあるのですか」と。「バーヒヤさん、北の諸地方に、サーヴァッティという名の城市が存在します。そこに、彼が、世尊が、今現在、阿羅漢として、正自覚者として、住しておられます。バーヒヤさん、まさに、彼は、世尊は、まさしく、阿羅漢でもあれば、阿羅漢たるための法(教え)をも説示します」と。
 そこで、まさに、その天神〔の言葉〕に畏怖した樹皮行者のバーヒヤは、まさしく、ただちに、スッパーラカから立ち去りました。一切所において、一夜の滞在ですませ、サーヴァッティはジェータ林の、アナータピンディカ〔長者〕の園地のあるところに、そこへと近づいて行きました。さて、まさに、その時、大勢の比丘たちが、野外で歩行〔の瞑想〕をしています。そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「尊き方々よ、いったい、どこに、まさに、今現在、世尊が、阿羅漢として、正自覚者として、住しておられるのですか。わたしどもは、阿羅漢であり、正自覚者である、彼と、世尊と、相見えることを欲する者です」と。「バーヒヤさん、まさに、世尊は、町中へと、〔行乞の〕食のために入りました」と。
 そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、急ぎの様子でジェータ林から出て、サーヴァッティに入って、世尊が、サーヴァッティを〔行乞の〕食のために歩んでいるのを見ました。浄信の方にして浄信をおこすべき方を――〔感官の〕機能が寂静となり意“こころ”が寂静となった方を――最上の〔身の〕調御と〔心の〕寂止を獲得した方を――〔自己が〕調御され〔感官の門が〕守られ〔感官の〕機能が制された龍を。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊よ、わたしに、法(教え)を説示してください。善き至達者(善逝)よ、法(教え)を説示してください。長夜にわたり、わたしの利益と安楽のために存するであろう、〔まさに〕その〔法〕として」と。このように言われたとき、世尊は、樹皮行者のバーヒヤに、こう言いました。「バーヒヤさん、まさに、まだ、〔そのための〕時ではありません。〔わたしたちは〕町中へと、〔行乞の〕食のために入ったのです」と。
 再度また、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ですが、まさに、このことは、知り難いことなのです。あるいは、世尊の生命にたいする諸々の障害についてのことであれ、あるいは、わたしの生命にたいする諸々の障害についてのことであれ(わたしたちの生命は、明日をも知れないものなのです)。尊き方よ、世尊よ、わたしに、法(教え)を説示してください。善き至達者よ、法(教え)を説示してください。長夜にわたり、わたしの利益と安楽のために存するであろう、〔まさに〕その〔法〕として」と。再度また、まさに、世尊は、樹皮行者のバーヒヤに、こう言いました。「バーヒヤさん、まさに、まだ、〔そのための〕時ではありません。〔わたしたちは〕町中へと、〔行乞の〕食のために入ったのです」と。
 三度また、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ですが、まさに、このことは、知り難いことなのです。あるいは、世尊の生命にたいする諸々の障害についてのことであれ、あるいは、わたしの生命にたいする諸々の障害についてのことであれ。尊き方よ、世尊よ、わたしに、法(教え)を説示してください。善き至達者よ、法(教え)を説示してください。長夜にわたり、わたしの利益と安楽のために存するであろう、〔まさに〕その〔法〕として」と。
※58「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極“おわり”です」と。
 そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤですが、世尊の、この簡略なる法(教え)の説示によって、まさしく、ただちに、〔何ものをも〕執取せずして、心は、諸々の煩悩から解脱しました。
 そこで、まさに、世尊は、樹皮行者のバーヒヤを、この簡略なる教諭によって教え諭して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊が立ち去ったあと、長からずして、樹皮行者のバーヒヤに、若い子牛づれの雌牛がぶつかって、〔その〕生命を奪いました。
 そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティを〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、大勢の比丘たちと共に城市から出て、樹皮行者のバーヒヤが命を終えたのを見ました。見て、比丘たちに語りかけました。「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を収め取りなさい。寝床に載せて運び出して、燃やしてあげなさい。そして、彼のために塔を作りなさい。比丘たちよ、あなたたちと梵行を共にする者が、命を終えたのです」と。
 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を、寝床に載せて運び出して、燃やしてあげて、そして、彼のために塔を作って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、樹皮行者のバーヒヤの肉体は焼かれました。そして、彼のために塔が作られました。彼には、どのような〔来世の〕境遇(趣)がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。そして、法(教え)を問題にして、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、完全なる涅槃に到達したのです」と。
 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
 「しかして、そこは、水と地と火と風が依って立たざるところにして、そこに、星々は輝かず、日は輝かず、そこに、月は輝かず、そこに、闇は見い出されない。
 しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の知慧〕によって、自己みずから、〔このことを〕知ったとき、しかして、形態(色)から、かつまた、形態なきもの(無色)から、楽苦〔の思い〕から、〔彼は〕解き放たれる」と。
 〔以上が〕第十〔の経〕となる。
 この感興〔の言葉〕もまた、「世尊によって説かれたものである」と、わたしは聞きました。ということで――
 菩提の章が、第一となる。
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元になるパーリ語経典

バーヒヤ1.10 Bāhiyasutta  10

51 Evaṃ me sutaṃ— かくの如く 私は 聞きました
ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane nāthapiṇḍikassa ārāme.
ある時 世尊はサーヴァッティ ジェータ林 アナータピンディカの苑に

Tena kho pana samayena bāhiyo dārucīriyo suppārake paṭivasati samuddatīre sakkato garukato mānito pūjito apacito lābhī cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānapaccayabhesajjaparikkhārānaṃ.


Atha kho bāhiyassa dārucīriyassa rahogatassa paṭisallīnassa evaṃ cetaso parivitakko udapādi— “ye kho keci loke arahanto vā arahattamaggaṃ vā samāpannā, ahaṃ tesaṃ aññataro”ti.
52Atha kho bāhiyassa dārucīriyassa purāṇasālohitā devatā anukampikā atthakāmā bāhiyassa dārucīriyassa cetasā cetoparivitakkamaññāya yena bāhiyo dārucīriyo tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bāhiyaṃ dārucīriyaṃ etadavoca— “neva kho tvaṃ, bāhiya, arahā, nāpi arahattamaggaṃ vā samāpanno. Sāpi te paṭipadā natthi yāya tvaṃ arahā vā assa arahattamaggaṃ vā samāpanno”ti.
53“Atha ke carahi sadevake loke arahanto vā arahattamaggaṃ vā samāpannā”ti? “Atthi, bāhiya, uttaresu janapadesu sāvatthī nāma nagaraṃ. Tattha so bhagavā etarahi viharati arahaṃ sammāsambuddho. So hi, bāhiya, bhagavā arahā ceva arahattāya ca dhammaṃ desetī”ti.
54Atha kho bāhiyo dārucīriyo tāya devatāya saṃvejito tāvadeva suppārakamhā pakkāmi. Sabbattha ekarattiparivāsena yena sāvatthī jetavanaṃ anāthapiṇḍikassa ārāmo tenupasaṅkami. Tena kho pana samayena sambahulā bhikkhū abbhokāse caṅkamanti. Atha kho bāhiyo dārucīriyo yena te bhikkhū tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā te bhikkhū etadavoca— “kahaṃ nu kho, bhante, etarahi bhagavā viharati arahaṃ sammāsambuddho? Dassanakāmamhā mayaṃ taṃ bhagavantaṃ arahantaṃ sammāsambuddhan”ti. “Antaragharaṃ paviṭṭho kho, bāhiya, bhagavā piṇḍāyā”ti.
55Atha kho bāhiyo dārucīriyo taramānarūpo jetavanā nikkhamitvā sāvatthiṃ pavisitvā addasa bhagavantaṃ sāvatthiyaṃ piṇḍāya carantaṃ pāsādikaṃ pasādanīyaṃ santindriyaṃ santamānasaṃ uttamadamathasamathamanuppattaṃ dantaṃ guttaṃ yatindriyaṃ nāgaṃ. Disvāna yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavato pāde sirasā nipatitvā bhagavantaṃ etadavoca— “desetu me, bhante, bhagavā dhammaṃ; desetu sugato dhammaṃ, yaṃ mamassa dīgharattaṃ hitāya sukhāyā”ti. Evaṃ vutte, bhagavā bāhiyaṃ dārucīriyaṃ etadavoca— “akālo kho tāva, bāhiya, antaragharaṃ paviṭṭhamhā piṇḍāyā”ti.
56Dutiyampi kho bāhiyo dārucīriyo bhagavantaṃ etadavoca— “dujjānaṃ kho panetaṃ, bhante, bhagavato vā jīvitantarāyānaṃ, mayhaṃ vā jīvitantarāyānaṃ. Desetu me, bhante, bhagavā dhammaṃ; desetu sugato dhammaṃ, yaṃ mamassa dīgharattaṃ hitāya sukhāyā”ti. Dutiyampi kho bhagavā bāhiyaṃ dārucīriyaṃ etadavoca— “akālo kho tāva, bāhiya, antaragharaṃ paviṭṭhamhā piṇḍāyā”ti.
57Tatiyampi kho bāhiyo dārucīriyo bhagavantaṃ etadavoca— “dujjānaṃ kho panetaṃ, bhante, bhagavato vā jīvitantarāyānaṃ, mayhaṃ vā jīvitantarāyānaṃ. Desetu me, bhante, bhagavā dhammaṃ; desetu sugato dhammaṃ, yaṃ mamassa dīgharattaṃ hitāya sukhāyā”ti.

※58“Tasmātiha te, bāhiya, evaṃ sikkhitabbaṃ— ‘diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati, sute sutamattaṃ bhavissati, mute mutamattaṃ bhavissati, viññāte viññātamattaṃ bhavissatī’ti. Evañhi te, bāhiya, sikkhitabbaṃ. Yato kho te, bāhiya, diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati, sute sutamattaṃ bhavissati, mute mutamattaṃ bhavissati, viññāte viññātamattaṃ bhavissati, tato tvaṃ, bāhiya, na tena; yato tvaṃ, bāhiya, na tena tato tvaṃ, bāhiya, na tattha; yato tvaṃ, bāhiya, na tattha, tato tvaṃ, bāhiya, nevidha na huraṃ na ubhayamantarena. Esevanto dukkhassā”ti.
59Atha kho bāhiyassa dārucīriyassa bhagavato imāya saṃkhittāya dhammadesanāya tāvadeva anupādāya āsavehi cittaṃ vimucci.
60Atha kho bhagavā bāhiyaṃ dārucīriyaṃ iminā saṃkhittena ovādena ovaditvā pakkāmi. Atha kho acirapakkantassa bhagavato bāhiyaṃ dārucīriyaṃ gāvī taruṇavacchā adhipatitvā jīvitā voropesi.
61Atha kho bhagavā sāvatthiyaṃ piṇḍāya caritvā pacchābhattaṃ piṇḍapātapaṭikkanto sambahulehi bhikkhūhi saddhiṃ nagaramhā nikkhamitvā addasa bāhiyaṃ dārucīriyaṃ kālaṅkataṃ; disvāna bhikkhū āmantesi— “gaṇhatha, bhikkhave, bāhiyassa dārucīriyassa sarīrakaṃ; mañcakaṃ āropetvā nīharitvā jhāpetha; thūpañcassa karotha. Sabrahmacārī vo, bhikkhave, kālaṅkato”ti.
62“Evaṃ, bhante”ti kho te bhikkhū bhagavato paṭissutvā bāhiyassa dārucīriyassa sarīrakaṃ mañcakaṃ āropetvā nīharitvā jhāpetvā thūpañcassa katvā yena bhagavā tenupasaṅkamiṃsu; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ nisīdiṃsu. Ekamantaṃ nisinnā kho te bhikkhū bhagavantaṃ etadavocuṃ— “daḍḍhaṃ, bhante, bāhiyassa dārucīriyassa sarīraṃ, thūpo cassa kato. Tassa kā gati, ko abhisamparāyo”ti? “Paṇḍito, bhikkhave, bāhiyo dārucīriyo paccapādi dhammassānudhammaṃ; na ca maṃ dhammādhikaraṇaṃ vihesesi. Parinibbuto, bhikkhave, bāhiyo dārucīriyo”ti.
63Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi—

64
“Yattha āpo ca pathavī,
tejo vāyo na gādhati;
Na tattha sukkā jotanti,
ādicco nappakāsati;
Na tattha candimā bhāti,
tamo tattha na vijjati. (10)
65
Yadā ca attanāvedi,
muni monena brāhmaṇo;
Atha rūpā arūpā ca,
sukhadukkhā pamuccatī”ti. (11)
66Dasamaṃ.
67 Ayampi udāno vutto bhagavatā iti me sutanti.
68Bodhivaggo paṭhamo.
69 TASSUDDĀNAṂ
70
Tayo bodhī ca huṃhuṅko,
brāhmaṇā kassapena ca;
Aja saṅgāma jaṭilā,
bāhiyenāti te dasāti.
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安養寺住職 吉水秀樹
Admin: 安養寺住職 吉水秀樹

『安養寺みんなの仏教』ニャーナラトー長老の法話を住職の吉水秀樹がレポートしたものです。 

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