ニャーナラトー長老 法話の記録 安養寺みんなの仏教 

2022年 7月16日 『安養寺みんなの仏教』 講師アチャン・ニャーナラトー長老 感想レポート

2022/07/27
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 今回は、レポートではなく、参加者の感想を報告します。長老の語られたことではない、個人の感想と理解してください。

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★参加者の感想
初期仏教については、スマナサーラ長老の御本と主にユーチューブで学んでいましたが、勉強会は初めての貴重な体験でした。ブッタと唱える歩く瞑想は初めて知りましたし 座る瞑想の時のニャーナラトー長老のお言葉が心に染みました。言葉では無く手に掴んでいる重たいものを放すと楽でしょ。という説法は理解しやすい説法でした。常に時間の中心に乗っておられるとおっしゃっておられた、ニャーナラトー長老のお話が直接お聴きできたのは本当に有り難かったです。また勉強会に参加したいと思っています。S・I

歩行瞑想、座しての瞑想、参加者による熱心な質問に丁寧にお答えいただきました。お寺のいつもの安心した心地よい空間と時間は、ニャーナラトー長老が言われるように、時間の真ん中にいる自分を感じることができる気がしました。一日のうち少しでも静寂の中にいること、今を感じて過ごすことを改めて思うことができる時間でした。K・N

今回質問させていただいた、「本当の自由」について大変わかりやすく説明いただきました。また、「渇愛」にマイナスの渇愛があるという事、言われてみてはじめて気づけました。今まで   執着はプラスの渇愛の事としかとらえていなかったです。言われてみれば、その通りなのに、全く気付いてなかったです。dukkhaの翻訳のお話も興味深かったです。一つ気づいたのが、頭の中ではおよその事は理解できていても、実生活ではそれがすっかりどこかへ行ってしまっているという事です。三相の事も、頭では理解できているのに、自分の毎日はまた別のところにあるのです。単なる概念でなく、自分のものとして、中道である「本当の自由」に生きられる時がいつか訪れるよう、今後も精進したいと思います。N・M
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★住職の感想 私は二つの質問をしました。その問答からの感想を書きます。
一つ目は『苦』という真理、ドゥッカdukkhaについてです。
私は十代の頃に大学でdukkhaについて学びました。興味をもって水野先生の仏教概論を読んだ記憶があります。しかし、今思えばdukkhaのひと欠片も理解できていなかったと思います。知識レベルの理解で終わって、智慧にはならなかったのです。六十三歳になった今は、dukkhaは仏教の心臓と思い、日々の暮らし、私の人生の中心にあります。まさに『苦は聖なる真理』Dukkha ariya sacca. だと確信をもって思います。
現在、私はdukkhaを大きく三つに分けて理解しています。伝統的で正統な解釈でなく、あくまで私の理解です。その三つとは。

①【空っぽ】 人生は虚しい、生きることは空虚、苦しみの生存にたいした意味はない、といった意味です。英語で私は[emptiness] と理解しています。空っぽという一番の意味あいは、「生きることにたいした意味がない」ということになります。

②【苦しみ】英語で[suffering] 言葉通り「生きることは苦しみである」という意味になります。死ぬことが苦しみでなく、生きることが苦しみと理解しています。本当に生きることが苦しみとありのままに理解したら、いたずらに苦しんで生きる必要がなくなって、楽に生きられます。生存への執着が軽くなります。

③【満足できない】 英語で[unsatisfactoriness] 生きることは満足できない、満たされない、完成できないという意味です。人生に完成形がないと理解したら、やはり苦しみが減ります。なにも肩に力を入れ頑張って生きなくてもよい。このように理解したら楽に生きられます。

長老の話では、英語圏では、dukkhaの意味として、②と③、つまりsuffering unsatisfactoriness は通常の訳として使われるらしいです。一番目のemptiness は、ややネガティブな意味があるので使われないそうです。

 パーリ語のdukkhaは、duとkhaに分けられます。duは単語の頭につく接頭辞で、「悪い・難しい」などの意味があります。スマナサーラ長老は、「小石」という日本語を喩えに、「石」に「小」という言葉がつくと、「小石」になって、小さな石、とるに足らない石、duはこの「小」と似たような意味だと説明されたと思います。khaは、「空・虚空」という意味です。ですから、「空っぽ」という私の理解もまったくの間違いではないと思います。人生はとるにたらない空っぽ、生きることは空虚、人生は虚しいと、ストレートに理解しても間違いではないと思います。

 二番目の質問は、『境地と態度』(state & attitude) についてです。この質問の背景は、以前の「学びの会」にさかのぼります。私にとっては「仏道修行とは何か?」という根本に関わる問題です。
私は寺の長男として生まれました。十代の頃から仏道修行を意識していたと思います。若者は、「何かに成る」ことを目指さなければ、生きることが無駄になると考えて、みな何かを目指して生きていると思います。それは私にとって仏道でした。また、それは「何かになる運動」です。涅槃・悟り・禅定・安らぎ・信心…なんと表現しても、何かを目指して生きていたことに違いありません。ですから、私にとって、何らかの境地を求めて修行することは、息をするように当たり前のことでした。
しかし、前回の学びの会で長老から、ある私の質問に対して、「それ、ちゃいます」とあっさり言われました。また、「吉水さんはそのようなことを以前も質問されていましたね」とも言われました。なるほど、私は似た質問を繰り返していることに気づきました。
私の質問の要点は、当然のことと思って、仏道修行において、なんだかの境地を目指し、それを瞑想修行として毎日実践していたこと、そのこと自体への疑問です。どうも原点において、何か間違いがあるように考えはじめたのです。
 話はとびますが、「動機のある行為は矛盾を生む」という言葉があります。私は真理を説いた重要な言葉と理解しています。私たちの行為行動のすべてが、何だかの動機をもっています。お腹が減ったから食事をする、〇〇が欲しいから買い物に行く、私たちのすべての行為にこうした動機があるでしょう。それは、すべてに原因と結果があり、このような業kammaの法則の中で物事が起きているとも言いかえられます。そして、動機のある行為には矛盾が生まれるという意味です。
 その動機も矛盾も、つまりそれらは、「私」=「我」のことだと私は思います。

私は初期仏教の瞑想を知って、生まれて初めて動機のない行為があることを意識しはじめました。「因を離れて、果を超える」という言葉もあります。Kamma業にならない行為とか、輪廻を生まない行為、解脱という意味でしょうか? 私の尊敬する、故クリシュナムルティ師は、The flame without smoke.「煙のない炎」という言葉で、愛=真なるものの純粋性を説かれています。「煙のない炎」とは何か? それも「動機のない行為」と同質のものかと私は思います。
転じて、瞑想には動機が要らないという大きなテーマに繋がります。Doing nothing.が目指す瞑想の姿勢だとしたら、それは動機のない行為ではないでしょうか?

私の瞑想修行には動機が欠かせないものでした。どんな瞬間にも動機が見え隠れして存在しています。つまり、私の場合、「瞑想において何らかの境地を目指すこと」に繋がっています。それは私にとって空気のようなもので、「それが無いと意味がないではないか?」と思わせる何かです。しかしここに来て、そこに根本的な間違いがあるかもしれないと考えはじめたのです。

瞑想において、「境地を目指すことより、態度が肝心」。境地に至るには、時間も努力も必要です。しかし、態度には、時間も努力も要りません。私は最初、「境地に至るには時間が要る、しかし態度は少しの時間で得られる…」と理解していましたが、これも間違いだと理解しはじめました。
態度には時間が存在しないのです。無時間・無中心とでも言ったらいいのでしょうか。逆に言えば、だれでも努力なしに、そこに立つことができる。しかし、なんの結果も成果もそこにはないというのです。そこまで考えて、私はニャーナラトー長老が説かれている、doing nothing. Holiday of the heart. 釣り針のない釣り、七起き八起き…などの意味の真相が別の角度から見えてきたと思いました。
私の瞑想修行は決して完成していませんが、私は頑張って毎朝六〇分間坐るというスタイルはやめました。今は何処へ辿り着くのかわかりませんが、何かを求めないで、楽に坐るようにしています。これが、私の質問で得られた現時点での私にとっての答えです。
そういう意味では、ニャーナラトー長老に教わった瞑想は、「答え」に至る瞑想ではなく、答えから始まる瞑想とも言えるように思います。答えから始まるので、答えにたどり着く必要はないのです。

余談ですが、ここで私の理解している初期仏教の瞑想法を紹介します。自分なりの理解ですが、どの瞑想法が正しいということではなく、瞑想法にもいろいろな種類があり、プロセスの違いがあるという意味で参考になればと思います。

★パオ・セヤドーの瞑想
パオの瞑想を簡単に言うと、戒律を守ることから始まり、禅定(サマタ瞑想によりサマーディを得て心を清浄にする)を深め、智慧(ヴィパッサナー瞑想により洞察智を得る)を育てるという、三学に基づいた瞑想法です。実践的には、「禅定を得て心を育てる」という、禅定に重きを置いた点が特徴と言えると私は思います。私が深く実践した訳ではないので、表面的な表現に過ぎません。
 
★マハーシ・サヤドーの瞑想
【戒律・禅定・智慧】の三学を重んじることは初期仏教のどの瞑想法にも絶対に欠かせない点ですが、マハーシ式と言われる瞑想法の特徴は、「徹底して気づきを入れる」という点だと私は思います。私が最初にスマナサーラ長老から教わった瞑想法は、この方式を基礎にした瞑想法と理解しています。私は自分の瞑想の基礎として、この瞑想法を実践しています。

★アチャン・チャーの瞑想
 右に紹介した瞑想法と違うとは言えません。三学があっての仏道という点ではまったく同じ初期仏教に違いありません。ただ、禅定や、ラベリングして気づきを入れることに重点を置いた瞑想法とはすこし違います。右の二つの瞑想法のように、言葉でその方向性を説明することは難しいです。Doing nothing. Holiday of the heart. 今ここに安らぐ・なにもしない…といった言葉が導く、今ここのすべてにこころを開いていくような瞑想法かと私は思います。パオの瞑想法などとは特に水と油のように噛み合わない点が逆に興味深いです。

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さて、私は先生方の瞑想法に文句をつけたり、意見する気持ちはありません。ニャーナラトー長老が教えて下さる瞑想は、最初にゴールに立つような、不思議な感じがあります。それは実感して言葉で語れる世界ではありませんし、他の瞑想法と対立するものでもありません。しかし、アプローチの違いはあると私は理解しています。
 問答の後半で、ニャーナラトー長老は、「私は時間の真ん中にいます」というような表現で不思議な話をされました。私はいつも時間の外にいるのか、時間と対立します。瞑想しているのに、「もうはやく終わらないかなぁ…」と考えたり、時間を気にしたり…時間を量ることは時間と対立することで、私と時間の間に葛藤が生まれます。
それに対して、ニャーナラトー長老が語られた、いつも時間の真ん中にいるとは、楽で軽やか、時間の真ん中にいることで時間との対立は生まれません。自分が消えたような、ニャーナラトー長老の瞑想はそのようにあるから、時間に束縛される、何かになろうとする、肩に力が入ることがないのだと、理解が深まりました。
私は自分の質問から、出発点がゴールになるような、言葉を超えた世界が見えたと感じました。淡々と実践してみたいと思います。そのようなこころの状態を、ニャーナラトー長老は今回スメードー師の言葉から、”silence”という言葉を使っても説かれたと思います。

安倍元総理が師の地元の奈良で殺されたり…、相変わらず世間は激しく回転しています。同調して自分も流転するのでなく、沈黙や静寂こそが肝心な島という意味かと思います。意義深い勉強会でした。


※今回登場した、長老の言葉、私のインスピレーションと仏教用語のノート

★今ここにあるこころの安らぎをシェアする。
★集中することは間違いではない、しかし、禅定は答えにはならない。
★silence 沈黙・静寂こそが人生の要
★答えのある話、答えのない話
★時間の長い短いでない、時間のない
★時間の真ん中にいる

◎dukkhaの三種類 = 三苦(苦苦・壊苦・行苦)
★苦苦(くく)dukkha-dukkha 肉体的な苦・物質的な苦
★壊苦(えく)vipariṇāma-dukkha 自分が好ましい・愛しいと思うモノが、痛み・病み・壊れ・死にゆく等、好ましくない状態に変化するときに感じる精神的苦しみ。
★行苦(ぎょうく)saṅkhāra-dukkha【一切行苦・五蘊盛苦】とも言われています。どうせすべて壊れる、無常ゆえの苦 自分が存在すること自体、そしてそれにまつわる苦しみ、根源的苦。

※行苦は究極の苦(dukkha)です。存在が氷でできているようなものと真実を知って、それが変化し続けて間もなく溶けて形がなくなる、壊れゆくものであると明確に見たなら、どうして自分に執着するでしょうか? 氷でできた仏像を三億円で買って、金庫にしまうような人生観が消えてなくなります。

★心解脱(しんげだつ)Ceto vimutti
禅定から得られるこころの自由 貪りと執着からの解脱
★慧解脱(えげだつ)Pañña vimutti 無明からの解脱・智慧の解脱 

※この二つの仏教用語は諸説があり、確定できないので聞き流しされたほうが賢明です。
日本仏教の禅の世界だと、ただ坐ることが重要視されている事実はあると思います。それは四諦をよく理解して解脱する道とは少し違いはあると思います。それを心解脱と言うことも可能かもしれません。しかし、簡単に語れる内容ではありません。初期仏教で語られているこの二つの解脱はかなり高度な内容になり、私には理解不能です。

◎結び 皆さんがご存知のように、ニャーナラトー長老の言葉はこれでもかと言うくらい、慎重で穏やかです。私は恥ずかしながら、ときどきはやく要点を言えばいいのに…とか、しんきくさく思うことさえあります。しかし、私は瞑想会が終わった後で、自分は世の中で起きている悲しみや憂いに、きちんと接していないのではないかと考えました。そして、長老が安倍元総理の事件に関して、このような悲惨な事件を生んだ人的社会背景と丁寧に出会い、決して他人事とせず、自分に責任のある出来事として、直接的に接するように勤められていることに気づきました。多くの人は悲しみに対して、表面的に対立的に接しているだけで、決してその悲しみに直面していないのです。それはただ、悲しみという観念に反応しているだけのように見えます。

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安養寺住職 吉水秀樹
Admin: 安養寺住職 吉水秀樹

『安養寺みんなの仏教』ニャーナラトー長老の法話を住職の吉水秀樹がレポートしたものです。 

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