ニャーナラトー長老 法話の記録 安養寺みんなの仏教 

初期仏教学びの会 @安養寺 2023年1月21日 参加者20名

2023/01/24
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2023年 1月21日 第15回目となる『初期仏教学びの会』 感想レポート
                           安養寺住職 吉水秀樹 


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  学びの会は、【講話→瞑想→質疑応答】と進みました。質疑応答では、事前に五人の方の質問を受けていました。師は最初に、2人方の質問に対して、2023年のタイ森林派カレンダー1月の言葉から答えられました。

January Forest Sangha Calendar
If you are mindful you’ll be at ease. Put happiness to one side, suffering to the other side. Remain in the middle without letting the mind go in either direction.



 吉水の意訳です。
マインドフルでいるなら、安らいでいられます。幸福感を一方におき、苦しみをもう一方におく。そうして、そのどちらにもこころをやらず、真ん中にとどまる。

 

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◎参加者の感想をレポートします。(最初に私の感想から書かせていただきます)

★感想①
 この偈の最初の部分に、”at ease”という言葉があります。今回の学びの会では、この言葉の意味を理解することが大変重要なポイントになる、と私は思いました。at easeは、直訳すると「安らいでいる」「楽」となりますが、これは特別な状態になるとか、境地のようなものでなく、どこにでもあるような、楽、苦しみのない状態、重い荷物を持っていた人がそれを手放し床に置いた…「あ~楽ちん」と、特別なことではない、そこに留まろう、その感覚を求めようなどとする必要のない「楽」、と私は理解しました。
 これは簡単なことのようですが、実に瞑想者には深い意味があります。私たちはものごころつく頃から、何かでありたい、何かになりたい、幸福になりたい、苦を避けて楽を求めて生きています。仏道も瞑想も、その何かになること(欲・意欲)から生まれているからです。何かにならないと、生きている意味すらないと思っているのです。そのこころの働き自体が「苦しみ」であるなどとは、夢にも思っていません。

 話は変わりますが、家に甥が私の父母に贈ったフォトフレームがあります。今朝その写真を見たら、私の両親がひ孫を抱いて幸せそうに微笑んでいます。この写真はちょうど一年前に撮影されたものです。まさか、一年で二人とも逝くとは思いもしませんでした。その写真は過去の映像で、ただの写真です。今ここの現実ではありません。瞑想で心地よい経験をする。そのことは間違いではないのですが、それを感じたとき、その感覚はすでに終わっています。フォトフレームの写真と同じです。僅かであれその感覚を追い求めることは、過去の写真を見て「あの頃にかえりたい」と思うことと同じです。瞑想者がすることは、ただ気づくこと、煩悩(感情)を見て、ただ観察を続けることです。写真を見て想いに耽る時間などありません。このような意味の言葉を数々の先達も語っています。

 さて、原点に返りましょう。仏教とは四聖諦を学ぶことです。四聖諦は【苦集滅道】です。今回の学びの会に合わせて言うなら、

① 【苦】dukkha. Suffering. 苦しみを理解すること。

② 【集】samudaya. 生起・起因 
  いい感じ、感覚を求め、そこに留まろうとすることが苦しみの原因だと知ることです。

③ 【滅】nirodha. Sukha. at ease. 尽滅 安らいでいる 楽 何にもない

④ 【道】magga. Mindful. Remain in the middle. 中道 真ん中に留まる

 失礼な言い方になるかも知れませんが、質問者の「いつかその状態を保てるようになるでしょうか?」「気づきを保つコツをご指導ください」というこころの持ちようが、重い荷物を持った状態、①dukkhaであることに気づかれていないのでは? 苦しみを苦しみと理解していないことなのかも知れないと私は思いました。

 なぜそう言うのかと申しますと、私は前々回の学びの会から、ずっと「境地」と「態度」という問題に取り組んでいました。私は僧侶なので、若い頃から仏道とは修行をして、修練し、悟りの境地に至ること、「そのような経験を積まないと、仏教者として生きている意味もない」とかなり深い思いとともに生きていました。そうして苦難の時期を過ごして、五十歳を過ぎてようやく初期仏教に出会いました。それまで、「気づき」という言葉さえ知りませんでした。五十歳になって生まれて初めて、正真のお釈迦さまの教え、気づきの瞑想を知ったのです。
 私の修行は見る見る成長し、毎日六十分は平気で坐れるようになりました。短くとも禅定を体験し、喜び・軽安…その他のいろいろな至福を体験しました。いよいよ、これこそ仏道と自信を持つようになりました。しかし、一向に解脱には至りません。瞑想が終わったら、少なくなったとはいえ、欲や怒りの感情をもった凡夫のまんま暮らしています。
 いつの間にか、こんな状態では飛行場でウロウロ走り回っている飛行機のようで、一向に大空に飛び立つことができないではないかと、自分を責める気持ちも心の底から生まれていました。だから、多くの人と違って私には、doing nothing. Holiday of heart.という言葉が目の上のたん瘤のように、疎ましい言葉になっていました。

「何やねんそれは、何にもしないんなら、何にもならんやろ!」
「ホリディオブハーツ…そんな軽々しい!」

 そういう紋々とした時間を過ごして、ようやく私は、何かになろうとする、境地を求める出発点のこころが、dukkhaになっていることに気づきはじめました。
スマ長老から「chandarâga」という言葉を聴いたことも大きな転機となりました。

  『長老が、chandarāgaチャンダラーガという言葉を個人的に好むと仰いました。それは、良い意味の欲に、悪い意味の欲を付けた複合語で、要するに「感情」が入り込んでいるということです。例えばイスに坐っていても、それだけなら問題ないのですが、このイスでないとダメ! となると感情が入り込んでいます。善いことでも、悪いことでも、何であれそのことに「感情」が入っているか否かが、日常的な問題です。仏道修行でも、そこに感情が入りこんだらお終いという意味です。』

  「境地」というと聞こえがいいのですが、実は多くの瞑想者の境地という言葉は「権威」とも言い換えることができるのです。「私は静寂という境地に至りたい」という思いは、「私は静寂という権威が欲しい」と言い換えられます。「名誉」や「達成感・自己満足感」と言い換えることもできます。しかし、ほんとうの瞑想とは私のこころの中に、過去がまったくないときのこと、経験・経験者・判断…、境地も権威もまったくないときがほんとうの瞑想のようです。

 そうして、at ease. 境地を求めない、何かに至る必要ない安らぎ、時間の要らない安らぎを知るキッカケを得ることができました。それが単純に言えば「態度」です。「態度」なら、だれでも、時間をかけずに、そこに帰ることができます。
 私の瞑想は変容しました。時間にとらわれず、30分から50分くらいただ坐って、ただ起き上がって暮らします。そう、このほうが楽・at easeなのです。
 「結果を求めない」すでに言い尽くされた言葉です。

 私の尊敬するある先生が言いました。「瞑想とは、そうありたいと願っている自分を知ろうとすることではない、どんなに醜く、どんなに哀れでも、刻一刻と変化するありのまま自分を知ることだ」と。


 マインドフルでいるなら、安らいでいられます。幸福感を一方におき、苦しみをもう一方におく。そうして、そのどちらにもこころをやらず、真ん中にとどまる。

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 ★感想②
 早めについてお堂にのんびり座って目をつぶっていたとき、ふっと、「何者でもないあたし」という言葉が浮かびました。そしたら、ふわーっと気持ちが楽になったのです。ちょっとのあいだ、そのままでいて、それから、そうだよなあ、あたしはただの五蘊、あるいは四大の集まりだもんな、と考えたのですが、どうも、そんな頭でわかって納得したというのとは違う感じでした。
それから思ったのは、ああ、ここにいるから(いさせていただいているから)かもしれない、ということでした。あたしはのんきな独り暮らしで、知り合いにも、あんたはストレスがほんとになさそうだねえ、なんて言われたりしています。それでも独り暮らしは独り暮らしなりに心配事やあれこれの思いがあり、うちではそんな楽な気分を経験したことはありませんでした。でも、お堂にいて法友(と言わせていただきます)と一緒にニャーナラトー師のご到着を待っている、そのときにはほんとうに、法話のなかにあったat ease ああ、楽だなあという気持ちになったのです。
 あれは何だったのかなと、帰りがけなどに考えたりもしましたが、そうなるとまた、あの気持ちになりたい! とか、どうすれば? とかの思いが出てきそうだったので、やめました。 とにかく、安養寺さんに行かせていただける、法話を聞ける、仏教を学ぶ方たちと一緒にいる機会がある、それがありがたい、そういう思いに落とし込んでおくことにします。なんだか、とりとめがなくてごめんなさい。聞いていただいてありがとうございました。  T・Y
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★感想③
 はっとしたのは、手に持った水の入った鉢に石がちゃぽーん ちゃぽーんと、入るのをただ見ていることという例えです。それはとてもわかりやすかったです。駅と電車の例えよりも、私はハッとしました。駅と電車ならば、もう数年来私の駅には問題のある大きな電車が停車したまんまのように感じます。鉢の水に、石が落ちて波紋が広がるのを見ているというのは、少し自分が乖離しているようにも感じます。自分に起こっていること(というか、自分がしでかしていること)に、巻き込まれているとぐるぐるしてしまいますが、自分に起こっていることを水の波紋としてみているのは、とても客観的です。
良いことをする、悪いことをしない、心を清らかに保つ、これは毎回言われますし、常々私も、頭に置いていますが、良いことと悪いことが何なのか、実はわかりません。私の基準で良いか悪いか決めていると、たぶん間違っています。心は清らかなつもりですが、もしかしたらものすごく恐ろしい心なのかもしれない。それも、私と他人とでは判断が違うでしょう。まだまだ、迷いの中にいます。アチャンと安養寺さんの優しい空気に包まれるとほっとします。昨日の瞑想の間も何度も泣いてしまいました。ほっとしてしまうのです。このような私ですがまた参加させてください。ありがとうございました。 I・T
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★感想④
初期仏教会勉強に参加させていただき、ありがとうございました。従来、他所でこのような集いに参加させていただいたときに、なんとなく自分が場違いな場所にいる感覚、違和感がある場合がありましたが、今回はまったくありませんでした。これは、ニャーナラトー師の自分の耳には、馴染みのある関西弁と、心の学びの場にふさわしい、やさしいお話ぶりで心が和んだことが大きいと思います。また、安養寺さまに感じる場の雰囲気によるものも大きいと思いました。仏法の学びについても、貪瞋痴の三毒などの煩悩にとらわれず、また過度な知識を求めることなく、四聖諦の法に則り、ゆっくり学べばよいとのことに心が安らぎました。
瞑想中、呼吸に集中できないときに「集中できない」「わからない」と観察すればよいとのご指摘は、改めて観察するということに対する気づきと安心感を得ることができました。ありがとうございました。 S・K
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★感想⑤
途中退席のため、長老の電車と駅の話しか聞けませんでしたが、離れていることdoing nothingは、今までと同じような内容でしたが電車の例えは面白かったです。離れて気づいている、何が起こっているのか観察する。信を築いて毎日の誓願により自然に解脱に至るのでしょうね。 スマナサーラ長老も名色分離智慧が現れて、初めて仏教徒になれると言っていました。あと歩く瞑想ですがもう少しゆっくり歩いてほしいです。またよろしくお願いいたします。T・I

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★感想⑥
ご自身の大切なお話もいただき、また体調が万全でない中でも出向いていただき、それぞれの質問にも変わらず暖かい言葉をいただき、大変有難く思っています。師ご自身のお話の中にも、人の在り方、社会との関わり方、何を大切に生きていくかなど、心に沁みて、目指すところの方向性が少し見えてきたような気がしました。
また、真ん中の立ち位置に対する質問へのお話の中で、「器をただ持っている状態」という表現が大変わかりやすく納得できました。今後も精進したいと思います。N・M

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 ★感想⑦
長老様におかれましては、葬儀で大変お疲れにもかかわらず、大切な法話をお聞かせいただき、心より感謝いたしております。葬儀には、遺族の心を切替える場としての意味はあると思います。しかし、看取りで心身ともにダメージを受けている遺族に対し、弔問者は遺族の力になる言葉を手短に残して早々に去ることが望ましいと、経験から感じます。どうかお疲れが出ませんように。M・I

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 ★感想⑧
 電車と駅を気づきに例えた話し、やっと腑に落ちました。汚れた電車が来てもピカピカに磨くのは違う。解り易く教えて頂きました。電車が来たら見ているだけですね。頑張って電車を探さ無くても駅には電車は来ます其れを見たら電車はすぐに走り去る。doing nothingですね。有り難う御座いました。其れと甥子様のお話ですが、過去のほんの短い出会いでしか無かったのですが、様々な障害を持った方や其の御家族との会話や親切にされた事、色々教えて頂いた事、高齢の両親の状態などをその場で思い出しました。そして人も生き物も多くの人々と生命達がいて生きている。御冥福をお祈りします。仕事も徳が積めると言う御話も有り難かったです。同じ事をしても徳を積めたり、悪行為になったり、此れからはただ来る電車を見ていたいです。最後の化生の御話最後まで話して頂いて良かったです。慈悲の瞑想や五戒の力は聴いていたのですが、黒い暗いに対して 光りになるという具体的な御話はより確信を強めて頂きました。慈経の話しも大変興味深いお話しでした。そして歩く瞑想指導でブットウと心で唱えながら歩くのは、何か念仏や御題目を唱える様な、実は少し違和感が有りました。今回目覚めるという意味をハイライトして頂き、間違っているかもしれませんが、名詞的では無く、目覚めると言う動詞とお釈迦様とが合体した言葉と思ったら此れも歩く瞑想の大きな力になりました。多くの学びが有りました。有り難う御座いました。 S・I

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  ★感想⑨
 参加させていただく度にいつも感じる事があります。長老が、近況について時事問題や質問について様々なお話される中で、関わる方はもちろんのこと、その場にいない全ての方に寄り添われているのだなと感じます。お話を通して慈悲の心を見せていただいているような、感じさせていただいてるような気がします。
日常では、ついつい周りの言葉や自分自身の考え癖に囚われています。電車が次々とやってきます。時々電車に疲れてしまいます。時には疲れている事にも気づけなかったりします。
そんな時、お話を聞かせていただくとあたたかい気持ちになり、気づきを感じたり、日常に希望を持って戻れるような気分になります。テーマからそれてしまいましたが、素晴らしい時間を共有させていただいている事に感謝いたします。   K・A


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安養寺住職 吉水秀樹
Admin: 安養寺住職 吉水秀樹

『安養寺みんなの仏教』ニャーナラトー長老の法話を住職の吉水秀樹がレポートしたものです。 

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