ニャーナラトー長老 法話の記録 安養寺みんなの仏教 

2023年 2月26日 初期仏教学びの会 講師 : アチャン・ニャーナラトー長老 感想レポート

2023/03/08
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初期仏教学びの会 感想レポート 記録 : 吉水秀樹


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 今回の私の感想レポートは、学びの会でニャーナラトー長老が語られたキイワードを紹介することからはじめます。

『災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。』 
良寛和尚の言葉です。ストレートで解説はいらないです。「ありのまま・あるがまま」という仏道の中核、ニャーナラトー長老の語られる、doing nothingにも繋がります。

『あめゆじゆとてちてけんじや』・『私もこの歳になって、ようやく宮沢賢治の言葉が身に染みるようになりました…』
宮沢賢治の妹トシが死の床にあり二十四歳で亡くなる前に、兄の悲しみを和らげるために、「ミゾレを外から取ってきて」と賢治にたのんだ言葉。そのあとに、「私は私で一人いきます」「もし今度また人間に生まれたら、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます」と続きます。愛別離苦、生きることdukkha(苦)をありのままに感じます。

akâliko アカーリコー( 非時的・即時の )
法の六徳の三番目。カーリカkâlika (時の・時間の)という言葉に、否定の接頭語aが付いた言葉。この場合、【お釈迦さまの教えは、時間を要せず、即時に結果が得られる・非時間・無時間】と理解できます。

正見sammā diṭṭhi サンマーデッティ
すべての仏道修行(瞑想)の根本、仏道は正見に始まり正見に終わる。

預流果 sotâpatti ソーターパッティ
仏道の本流、悟りの流れに入ること、正見を理解すること、見解が落ちること。預流果とは、輪廻世界こころをこの世の欲楽に結び付ける「五結・十結」のうち、最初の三つが落ちることです。三つとは、

★『有身見』サッカーヤ・ディッティsakkāya ditthi 私があるという錯覚。「私がいる」「自分がある」「モノがある」「生命に永遠の魂や真我がある」という錯覚、誤見。

★『疑』ヴッチキッチャーvicikicchā 真理を疑う。間違ったことを鵜呑みに信じること。

★『戒禁取』sīlabbata parāmāsa シーラバッタ・パラーマーサ 儀式や戒律・決まりごと、道徳・戒律に対する執着が消えること。

☆法句経 第十三 lokavagga 世の中の章 No,178

地における一人の王になるよりも、あるいは、天界に行くことよりも、すべてを支配する者になることよりも、預流果のほうが優れている。
Better than sole sovereignty over the earth, better than going to heaven, better than lordship over all the worlds is the fruition of stream-entry.
※ Stream-entry =(sotâpatti) : the first stage of supramundane attainment.

Pathabyā ekarajjena, saggassa gamanena vā;
地における 一なる王に 天界に 行くこと あるいは
Sabbalokādhipaccena, sotāpattiphalaṃ varaṃ.
すべてを支配する者に 預流果のほうが 優れている

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 さて、質疑の中で私が一番気になったテーマは、悟りに至るステージ(時間)についての質問です。その質問の背景に、仏道いや人間社会における「努力・時間・思考」などの根本的な問題が含まれていると感じました。俗世間で生きる多くの人々は、時間を絶対的な存在、「ある」として、その前提で日々を暮らし、仏道修行にも励まれていると思います。単純に言えば、「何かを達成するには、時間と努力が絶対必要」という考え方です。
しかし、そのことは大変な問題です。時間を絶対とすることは、つまり輪廻する世界にしがみつくこととなんら変わらないと私は思います。
時間や思考、目に見えている世界、それにまつわる努力など、そのこと自体をよく見て、疑ってみる、このアプローチが仏道修行、正見に直結しています。なぜなら、正見はいかなる見解をも持たないことだからです。

 私は初期仏教に出会う前に、自分が見ているモノ・対象が絶対的ではない、という衝撃的な経験をしました。爾来「この目で見たから確かだ!」とは言えない、という自分の考えをまともに疑う感性、自分の部屋の扉の向こうさえ何があるかわからない、という智慧が育ちはじめました。

 「自分の部屋の扉の向こうもわからない」と聞くと、ふつうの人はそんなんじゃ生きられない…と思われるかもしれません。しかし、私が経験したその感覚は、じつに何の力(前提)も入らない、楽で純粋な経験でした。
 逆に、ふつう人はモノを見る前に、前提(過去の知識)をもって見たり聞いたりします。ですから、その反応は常に過去に条件づけされています。仏道修行・瞑想で、ありのままを見る、正見とは、そのような前提なしでただ見ることのように思います。ですから、力の入りようがありません。このように対象を見るとき、それは時間も思考も要しません。私はそのときに、時間と思考は本質が同じかもしれないと感じました。思考があるときに時間が生まれます。

 『日々是好日経』には、以下のように説かれています。

過去を追いゆくことなく
また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの
未来はいまだに来ぬものゆえに
現に存在している現象を
その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく
智者はそを修するがよい

 また、今回の法話でも名前が出たアングリマーラは、ブッダの後を追いかけて、「止まれ修行者よ!」と声をかけました。そのときブッダは「私は止まっています、アングリマーラさん。あなたが止まりなさい」と語り、その問答の結果、アングリマーラは解脱したと言われています。このブッダの「止まりなさい」は、何を意味しているのでしょうか?
 さらに、初期仏教経典には、最短時間で悟りを開いた人を伝えたバーヒヤ経という経典があります。バーヒヤさんは、ブッダの立ち説法を聞いた瞬間に、悟りを開いたと言われています。そのブッダの言葉とは、簡単に言うと、「見たものは見たまま、聞いたことは聞いたまま、考えたことは考えたまま、内にも外にもなにもない…」といった内容だったと思います。
法句経にも、愚か者が賢者になるのに、努力を重ねていつの日か賢者になるのではなく、愚か者が自分がまさに愚かであると認めたら、その場でそのまま賢者になる、とお釈迦さまは説かれています。
 これらの経典の言葉をよく味わえば、時間を疑う智慧が働き出すと私は思います。この先は、どうぞ日々の瞑想で、時間の終焉、自我の終焉、なにかが枯れ落ちるのを見おさめようではありませんか。

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  参加者の感想

 昨日は有り難う御座いました。昨年の夏頃より参加させて頂き 初期仏教を学びに行くんだ。自分を捨てに行くんだと、随分力が入っていたのですが、(笑)今回より、力みも抜け良い感じで、楽しい学びの時間を過ごせました。和やかで、お話しの中に入る冗談にも、随分笑いました。私と言う者を捨てるでは、無く落ちて行くのですね。落ちる。其れには正見が分かれば、それで終わり。うーん 何十年も前ですが、八正道?正見?正しいかったら良いに決まっでいるやん。で?…正しいて何に?また戻りました。あの頃よりは学んではいますが、まだまだ体験では無く本当には、正見解っていませんので、次の学びの会も、また楽しみです。 追伸 質問ありませんかのまたメールもラインも見落としました。失礼しました。次の質問はズバリ 仏教の正しいて何ですか?八正道で何でしょう?その中でも正見とは何ですか?世間や時代に左右されるものは違うなと、大昔思い。忘れても、時々何か引っ掛かっていた 正しい? 直接御法話でお伺いしたいです。 S・I


 昨日もほんとうにありがとうございました。サティ、マインドフルネスというのがどうしてもぴんと来なかったのですが、「何かをすることではない」というのがようやく腑に落ちた気がします。仏教の実践は、何かを得よう、何かに成ろうというのではない、というのはさんざん聞いて、読んできたのに、まだわかっていなかったんだなあ、と。ほんとうに言葉というのは難しいですね。自分がついつい言葉のイメージに振り回されてしまうたちだとわかってはいたのですが、改めて痛感いたしました(捨てると手放すというのも、そうですね。たぶん、入口としては、捨てることを意識することも必要なのでしょうが、やがて「落ちていく」のだろうな、と思いました)。
それから、太公望のお話も以前、何度か聞いていましたのに、昨日、アカーリコー、無時間のことと聞いて、はっとしました。ぜんぜん、わかっていなかったのです! アチャン・スメードーのお話のなかで「待つ」というのを聞いたときに、どうもこれは「何かを待つ」のではなさそうだけれど、じゃあ、どんな状態なんだろう? と首をかしげたことがありました。それって、無時間のなかにいる、ってことだったんですね!
同じようなことですが、「段階を踏んでエベレストの頂上を目指すのではない、いまここ、自分のこころ、これが肝心なのだ」ということも、ぼんやりと霧のなかに見えていたことをはっきりと示されて、霧が晴れたように思いました。どうも同じことを繰り返しているような気がしてきましたが、わたしにとってはほんとうに充実した一日でした。来月もまた法話会を開いていただけると聞いて、とても嬉しいです! またよろしくお願いいたします。 T・Y


 穏やかな時間が流れ癒された一日でした。どんな言葉をおっしゃっていただろう、どんな意味だっただろうと考える中でふと言葉に囚われているのではと思いました。考えの奴隷…のようなお話も言葉だけを掘り下げてしまいそうになるのですが、言葉にフォーカスするところから離れてと意識すると、普段の日常が様々な情報や言葉にそれぞれの欲に、自分も周りも巻き込まれ、振り回されている事にいつもよりはっきりと気づきます。
何かを判断しようとせず、ありのままに気づく経験を少しずつ積み重ねて行けたらと思いました。 K・A


 アチャン・チャー長老の穏やかな声の録音を拝聴させていただくことから始まり、終盤は西からの荘厳な日の光のなか、お教えをいただくことができました。
 自我というものは捨てるものではなく、落ちてゆくものであるとのことでしたが、自らこれを断とう、捨てよう、離れようということをせずとも、断たれている。おのずから捨てさせられている。離れている。本来「無我」なのだから落ちてゆくものと納得いたしました。
 また、大乗仏教の教説とテーラワーダ仏教の比較のような質問は、長老に失礼ではと危惧しておりましたが、質問を敷衍した普遍的な教えをいただきありがたい時間となりました。
 以下、注意力散漫なため曲解しているかもしれませんが、断片的に心に残ったことを記させていただきます。
・山に登らず、山をつくる(になる)線引きできない。グラデーションである。
・何も知らない自分がすべて知っている、何もないところにすべてがある
・輪廻の中で苦から脱却する
・瞑想は、釣り針のない釣り。釣果を求めない。
・時間は過ぎ去ったり来たりしない。 存在は時間 時間は存在 今の自分にすべての時間がある。
 過去を思い出すのは、今の自分が。過去を思い出している。
・テーラワーダ仏教で悟りに至ることができないのは、両親や阿羅漢を殺すなどの五重罪を犯したものである。
 特に心に残ったのは、悟りに出家、在家の差はない、預流果も悟りであるとのお示しは、このまま瞑想を続けていく励みとなりました。ありがとうございました。 S・K



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安養寺住職 吉水秀樹
Admin: 安養寺住職 吉水秀樹

『安養寺みんなの仏教』ニャーナラトー長老の法話を住職の吉水秀樹がレポートしたものです。 

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