ニャーナラトー長老 法話の記録 安養寺みんなの仏教 

2023年 9月9日 初期仏教学びの会 @安養寺 参加者の感想

2023/09/12
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★住職の感想
 今回の学びの会では、Surrender to the present moment. You are not what you think. など、キイとなる言葉がいくつか登場しました。それらの言葉をつらぬく一つのカギが、「私という錯覚」だったように感じています。
 長い年月、熱心に瞑想修行したとしても、「私という錯覚」「私という中心」に固執したままなら、大方は時間の無駄ということになりかねません。
 以前にもお話ししましたが、私の感覚としてニャーナラトー長老の瞑想は、最後にゴールに至るという時間軸の中(輪廻の中)にある瞑想ではなく、「最初にゴールに立つ」というような感覚があると思いました。それはある意味で、「努力が要らない」「なにかになる」「~のため」といった「時間という縛りのない瞑想」、禅定という安らぎや、悟りの境地を目指す瞑想でなく、ただ正しい立ち位置に帰る、境地より態度…、ということになるのでしょう。
 そのような真実が、今回の学びの会では、Surrender to the present moment.「今ここにひれ伏す」「今ここに無条件降伏」という言葉の背景にあったと思います。

 瞑想を正しく理解するために何度も喩えられている、「駅と電車の例」があります。
「電車は放っておいて、駅で安らぐ」というのが肝心なことのようです。私も瞑想していたら、電車はひっきりなしにやってきます。こころが落ち着いていたら、たいていの電車をホームで眺めて淡々と見送ることができます。しかし、ちょっとした油断で、「電車に乗ってしまう」「電車と戦う」「駅から遠く離れたところまで、電車を乗り継いで行ってしまう」…、などということが起こります。

 みんなが歩く瞑想に出かけているとき、私は一人で坐る瞑想を続けていました。最初は電車を眺めて、気づきを保っていました。あるとき、「ミズナ・水菜」という電車が現れました。「水菜の種を撒いてないぞ、しまった!」と、思ったのです。そこから、電車に乗ってしまいました。何分間妄想していたのかわかりませんが、今ここ、気づきの世界から離れて、畑の畝建の段取りやその他の予定を考えていました。まったく、自分のアホさに笑えます。

 さて、電車に乗ってしまうのは何故でしょうか? 私は、「感情」が生まれて乗ってしまう、と言いました。ニャーナラトー長老は、それを「Taṇhāタンハー=渇愛があるからですね」と整理されました。電車とは仏教用語では、感受vedanâヴェーダナーのことです。生きていたら、ひっきりなしに感受作用が起こります。それが生きているということです。
「感受で終わらせる」、何度か使った言葉ですが、瞑想では感受で終わらせ、淡々と観察することが大切です。

 しかし、今回の私のように、感受から走り出して電車に乗ってしまうことがあります。電車に乗るのは、事前に自分のこころに、その事象についての「渇き・飢え」があったからです。私の場合は可愛いことですが、「九月になったら秋野菜の準備をしなきゃ!」という、「しなければならないこと・強く思うこと→欲貪・渇愛」がありました。「しなければならないこと」があると、自由をなくします。そのような潜在的、こころの飢え渇き状態がTaṇhāタンハー(渇愛)と言えそうです。ですから長老は、「電車に乗るのはタンハーがあったから」と整理して下さいました。

 確かに、そのとおりです。「ミズナ」と触れても、「まぁ、いつか…」と思っていれば、電車を眺めていられるのですが、「ミズナ」→「種まきしてない」→「しまった!」→「よし、直ぐ撒こう!」、潜在的衝動に触れて、このように走り出したと思います。
しかし、ここで一つ大事なことは、以前教わった「七起き、八起き」の例えのように、そういう自分に出会っても、強く反応しないこと。妄想も渇愛も放っておいて、気づいたらただ淡々と駅に帰ることだと思います。それが今回の法話の根底に流れている大切な部分だと思います。生身の人間ですから、電車に乗ってしまうことも当然起こります。執着や渇愛があっても、なくても、「気づいたら、駅に帰る」これが一番大切なことと思いました。

 できた、できなかった。なれた、なれなかった。何かに向かって、何かを手に入れる為に、これらの思考があらわれる根底には、無明avijjâアヴィッジャーがあります。それが、「私」という錯覚、「私がいる」という無智から生まれると思いました。
 You are not what you think. この言葉は、法友から貰ったアマラワティ寺院のTシャツに書いてあり、私も気になって訳してみました。
 私の最初の訳は、
「私は、私の思考ではない」でした。どんな思考があらわれても、それはただの思考、「それは私ではない」と達観できたら、楽に生きられると思います。

ニャーナラトー長老99


★参加者の感想

 安養寺法話会は仏教学びの会にふさわしい内容だといつも感じます。ご住職はじめ皆さんの活発な質問に対し、何とか皆にわかるようにと、アチャンの手を変え品を変え?た見事な回答はいつもアチャン流で聞き入ってしまう事が多いです。個人的には、理不尽な事に対する怒りにどう心を整えるか、ということがとても参考になりました。全てが凝縮していました。ポツンと孤独な怒りを抱えた心に慈悲と忍耐を添え、違う視点が見えるまで、立ち位置が変わるまで自分の渇愛を見ていきたいと思います。K.N

 今日は有り難う御座いました。本当に盛り沢山の内容でした。座る瞑想のdoing nothingから始まり、最後の話しも、ゴチャゴチャあってもdoing nothingで、ゴチャゴチャも放っておいて、瞑想に入られるお話しで締めでした。安らぐから、 a holiday of the heart.だから。
 静かな池の水に石が落ちると気づく、集中しなければ、成らなければ、〜のために、では無いと今回もしっかり学ばせて頂けました。渇愛の話も有りましたが、渇愛で生きている身では、ヒョイと来た電車に乗って、安らぎから離れて我に苦しめられ、ますます、我は成ろうにひっかかる。そして瞑想も稀に魔境に落ちる。スマナサーラ長老も、光は光害、光を見るために瞑想する人もいるが、智慧が有れば光は見ない、光が見えたりするのは、智慧の無い証拠と言っておられたのを思い出しました。「貪」、特に「愛慾」に対しては不浄観、「瞋」に対しては「慈悲」、「痴」に対しては「業」を変え、生死を観る。そして「貧瞋痴」3つに対して、「空・ 無我」が有る。you are not what you think. と surrender to the present moment. 新しい言葉、紙に大きく書きます。執着を捨ててると思っていたら、執着があったというお話、そこで執着を捨てる人になるのも執着、本当に盛り沢山でしたので、感想というより、今日のお話を思い出させて頂くために少し羅列する様な形に成りました。本当に有り難う御座いました。 S.I

 執着を俯瞰できたら、というところまではたどり着いていたのですが、それをどうすればいいのかと言うところで四苦八苦し、何とか執着を一つでもなくしていこうとすればするほど、それこそリストアップにずらっと並ぶような状態で、そして、執着には我がべったり粘着していて、正直、常にその事が頭から離れず、もうどうにも身動きが取れなくなっていました。
執着をなくそうとしなくていい、あってもいい、我もあっていいと言ってくださった瞬間にスッと心が軽くなりました。そして、大切なのはその電車に巻き込まれない事だと、そしてその電車に乗らないために、また駅にとどまるために、You are not what you think.
Surrender to the present moment. が大変わかりやすく自分の中でしっくりきました。
今まで悶々としていたのが嘘のようにスッキリと軽くなりました。このような機会に恵まれ、本当に感謝しております。ありがとうございました。N.M

 会の後で、初めてニャーナラトー長老と向き合ってお話しました。ずっと一方的に距離を感じておりましたが、温かく会話してもらえてうれしかったです。今日の会で話しておられたことはとてもよくわかりました。今までは、次元の高い人たちが話しておられるわ〜という位置に私はおりました。しかし、今日は話についていってる、話がわかる、理解できる!と思ったのです、やっと。長いこと苦しかったけど、気がついたらちょっと楽になってるわ〜と思いました。私は執着を捨てるとか、なくすとか、執着は悪とは思わないです。
それがあっての私です。そして どのような立ち位置にいるか。執着とおなじ土俵に立っていてはいけない、それはタンハーを持って電車に乗ってしまうのと同じ。執着は捨てられるものではない執着があっての私。それを俯瞰的に見る私、「それやな!」と思いました。無理やりタンハーを捨てよう、なくそう、とはもう思わないです。これは今のところの結論?です。また変わっていくと思いますが………夕方の光の中でメダカが美しかったです。いつもありがとうございます。 I.T

 ニャーナラトー長老の法話は難しい部分もありましたが、考えさせられる部分もありました。
暑い中から戻り、心地良い場所での法話に、疲れたせいか、途中何回かウトウトしてしまい聞き漏らしてしまいました。残念でした。「我思うゆえに我あり」は難しかったです。
つまり「You are not what you think 」と同じ意味と捉えていいんでしょうか?
 最後の吉水様の水菜の電車の話も心に残りました。長老は感情とは言わず、ベーダナ?とおっしゃいましたか? ベーダナとは思念のことですか? タンハーは渇愛、執着の意味であってますか? お答えくださいましたら幸いです。Y.S

 You are not what you think. Surrender to the present moment.
これらの言葉が、アチャン・チャーの、以下の文とリンクしました。
『五蘊そのものは苦しみではありません。五蘊は自分のものだと考え、それに執着することによって、苦しみが生じるのです。』瞑想をとおしてこの真理を明晰に見るなら、苦しみから解放されるでしょう。アチャン・チャー法話集③ N.I

 昨日はお世話になりありがとうございました。いつもと違った感じで面白かったです。タイと西洋で気質が違うのでタイでは貪瞋痴(とんじんち)の貪を、西洋や日本では、瞋(しん)=怒りをしっかり学ぶとのお話、どちらの気質がいいのか悪いのかは無いけれども日本は生きにくい国であることは事実、慈悲が足りないんですね。奇しくも今年の書き初めは慈愛!足りてないと自覚しておりました(笑) 瞑想では久しぶりに静寂が長く続き、ニャーナラトー師や場の力だなぁ有り難いなと思いました。K.Y

 いつも感じていることですが、ニャーナラトー長老とご住職のやり取りのなかで、言葉や発言に誤解が生じないようにとの責任を持たれるためと思いますが、言葉を何度か聞き返される様子に、お人柄が表れていて関心致しました。
 今、瞑想やマインドフルネス、禅がある種のムーブメントになっているようですが、ある種の人々が瞑想を始めるためのモチベーションは、「他人より優れたい」や「私はこんな高尚なことをしている」、ビジネスの成果に結び付けたい、あるいは瞑想そのものをビジネスにしたいとの欲であり、ある種の自己実現欲求からであるように思います。
長老の瞑想は、「何々のために」や「何々になるため」等の成果を求めるものではない、もっと安らいでくださいとのお示しは、改めて本質を思い返すこととなりました。
また、日々の瞑想も惰性的になることがありますが、まさに「Zen Mind Beginner's Mind」のように毎回が初心者のように、謙虚にあるべきと思いました。
瞑想による負の反応については瞑想に付随する危険性について、禅でも禅病といわれる現象があり、白隠禅師が自身の禅病を軟酥の法という一種の内観療法で治癒したことが有名ですが、禅宗では、修行者を「転がす」ことがあるとのことで、これは仏教学者の鎌田茂雄先生が駒澤大学の学生であった頃、大学の坐禅堂で、澤木興道老師に何度も単(自分の坐禅する場所)から狐がついていると落とされた逸話を思い出しました。また、瞑想に限らず数十年前に中国の『気功』である法輪功でも、偏差と呼ばれる精神的な副作用が頻出したことを思い出しました。ある種、無心になるような精神集中を伴う行為には同種の危険性があるのだろうと思います。煩悩に対する対処法も、幻覚的な魔境の対処法も、究極は「生じては滅する」という、無我の体解が有効であることに納得致しました。S.K

 座っているときに長老の言葉、「本気で『安らいで』みてください」があったではないですか。「安らいで」と言われるのけっこう安易に考えがちですよね。特に日本人は。長老も「きつく言い過ぎました」と反省してはりましたが、あれはああ言いたくなる気持ちをくんで、ちょっと今日座るときに本気でやってみました。そしたら「安らぐ」って「今しかできない」ということがわかりました。過去や未来には安らげないんですよ、思考をしていると安らげないんですよ。ワザとでも安らいだ瞬間に、今に帰ります。おかげさまで今日は久々の第一禅定です(笑)。みなさんも試してみてください。Y・N

 何かになるという時間の中ではなく、今ここにひれ伏す、今ここに無条件降伏、という今ここにの態度、とあらためて教えていただきました。 ふらふら電車に乗ってしまい、乗った後またグズグズしてしまいます。あまり反応しないように、とりあえず「気づいたら、駅に帰る」を大切にします。「駅と電車の例」や皆さんの感想を読んで学びたいと思います。 A・F 



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安養寺住職 吉水秀樹
Admin: 安養寺住職 吉水秀樹

『安養寺みんなの仏教』ニャーナラトー長老の法話を住職の吉水秀樹がレポートしたものです。 

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